ネヘミヤ記2章

2:1 アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私はぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった。

 彼は、献酌官として王の気分を害するようなことは見せてこなかったのです。しかし、この時は、それが現れてしまったのです。

・「気持ちが沈んでいた」→「悪い」。気持ちが沈んでいたとする訳は、不適切。なぜならば、気持ちが沈んでいたとしても、顔に現れるとは限らない。献酌官として王に失礼にならないように振る舞うこともできるのです。これは、二節で、沈んだ顔と表現されているように、顔に悪い状態が現れることを言っています。悪い状態とは、沈んだ様子です。

2:2 すると、王は私に言った。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」私は非常に恐れて、

2:3 王に言った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」

 彼は非常に恐れました。それは、王の指摘が正しく、王にその悲しみの理由をそのまま告白しなければならなかったからです。今まで、そのことを言うことはできませんでした。しかし、この時、そのことを語らなければならない状況に追い込まれたのです。それは、エルサレムの再建のことです。彼がそのことを王の前に語ることができないことと考えていたのは、エルサレムの再建を禁じる命令を出したのは、当のアルタクセルクセス王自身だからです。そのことは、エズラ記に記されています。

エズラ記

4:11 彼らが送ったその書状の写しは次のとおりである。「ユーフラテス川西方の者、あなた様のしもべどもから、アルタクセルクセス王へ。さて、

4:12 王にお知らせいたします。あなた様のところから、私どものところに上って来たユダヤ人たちはエルサレムに着き、あの反抗的で悪しき町を再建しております。その城壁を修復し、その礎もすでに据えられています。

エズラ記

4:23 さて、アルタクセルクセス王の手紙の写しがレフムと、書記官シムシャイと、その同僚たちの前で読まれると、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のところに行き、実力をもって彼らの工事をやめさせた。

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 しかし、彼は、その理由を明確に語りました。それは、廃墟となっているエルサレムのためであると。

2:4 王は私に言った。「では、何を望んでいるのか。」私は天の神に祈ってから、

2:5 王に答えた。「もしも王が良しとされ、このしもべにご好意をいただけますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある都へ遣わして、それを再建させてください。」

 彼は、王の決定に反することを求めなければならなかったのです。彼は、王が、彼の志したことを成功させてくださるように祈ってきました。それは、神によって彼の心に示されたことです。ここで、その神の前に全てを委ねて告白したのです。彼は、祈ってから王に告げました。しかも、明確に告げました。その決定権は、王にあります。王が良しとし、好意を与えてくださることを願いました。その上で、王の命令として彼を遣わし、エルサレムを再建させてくださるように願いました。

 彼は、エルサレムについて、先祖の墓のある都という表現を一貫して使っています。それは、戦いのための備えでないことを明確に示すためです。先祖に対する思いやりからであることを示し、王の同情を得やすくしています。

2:6 王は私に言った。王妃もそばに座っていた。「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」王はこれを良しとして、私を遣わしてくださることになり、私は予定を伝えた。

 王妃がそばに座っていたことがわざわざ記されています。非常に近い交わりの場所であることが伺われます。

 王は、ネヘミヤの申し出を良いとしました。ネヘミヤを遣わすこととしたのです。 

・「これを良しとし」→王の顔にすなわち王の目に良いとした。

2:7 また私は王にこう言った。「もしも王様がよろしければ、ユダに着くまで私が通行できるように、ユーフラテス川西方の総督たちへの手紙をいただけるでしょうか。

2:8 そして、宮の城門の梁を置くため、また、あの都の城壁と私が入る家のために木材をもらえるように、王家の園の管理人アサフへの手紙もお願いします。」わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。

 彼は、矢継ぎ早に大胆な願いをしています。必要なことを求め、それを神が成功させてくださると信じたからです。

・「恵みの御手」→良いすなわち神の目に適う御手。神様が、御自分の御心として事を行われる御手のこと。それは、彼の上に現された良いことです。

2:9 それで私はユーフラテス川西方の総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。王は、軍の高官たちと騎兵たちを私とともに送り出してくださった。

 王は、手紙を賜り、さらに、軍の高官と騎兵をつけてくれました。ネヘミヤのことを大事に考えたのです。祈りが叶えられました。

2:10 ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである。

 サンバラテとトビヤは、不機嫌になりました。彼らは、イスラエルの衰退を喜んでいたのです。イスラエル人の益になること嫌いました。

2:11 こうして私はエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。

2:12 ある夜、私は起きて出て行った。ほかに数人の者も一緒であった。しかし私は、私の神がエルサレムのためにさせようと私の心に示しておられることを、だれにも告げなかった。また私自身が乗った動物のほかに、動物はいなかった。

 彼は、密かに事を進めました。彼は、これからなすことを明確にするために、調査を行ったのです。まず、相談したのではありませんでした。なぜならば、彼がしようと心に定めたことは、神が彼の心に示したことであるからです。彼のすべきことは、それを成功させることです。

2:13 私は夜、谷の門を通って竜の泉の方、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べた。それは崩され、その門は火で焼き尽くされていた。

 彼が調べた箇所は、エルサレムの南側の城壁伝いでした。それは、壊され、門が火で焼かれていました。

2:14 さらに、泉の門と王の池の方へ進んで行ったが、私が乗っていた動物の通れる場所がなかった。

 そして、東側の城壁沿いに北に向かって上りました。動物が通れる場所がなかったとありますが、道が塞がれていました。

2:15 夜のうちに流れを上って行って、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻った。

 東側の城壁伝いに、調査をしました。

2:16 代表者たちは、私がどこへ行っていたか、また私が何をしていたかを知らなかった。ユダヤ人にも、祭司たちにも、有力者たちにも、代表者たちにも、そのほか工事をする者たちにも、その時まで私は何も告げていなかった。

 彼は、調査については何も知らせていませんでした。彼は、事を進めるにあたって、よく現状を把握しておく必要がありました。そして、神の示しを実現するために、何をなしたら良いかを明確にしておく必要があったのです。

 城壁の再建は、教会の再建の比喩です。このような問題について、まず話し合いをすべきという意見も出てきそうですが、そうではありません。まず、神様の御心をはっきりと知ることが必要です。その上で、なすべきことが何なのかを明確にしなければなりません。

 パウロは、召命を受けた時、アラビヤに退き、御心を明確に示されました。その上で行動したのです。

ガラテヤ

1:15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、

1:16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、

1:17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

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2:17 私は彼らに言った。「私たちが直面している困難は見てのとおりだ。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ。さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」

 エルサレムが廃墟となり、門が火で焼き払われたままであることは、屈辱を受けることでした。城壁を築き直すことで、その屈辱を晴らすことができます。再び繁栄することで、神の栄光を現すことができます。

 彼は、城壁を築き直すことを明確に告げました。

2:18 そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。

 その上で、彼らを励ますために、彼が神から受けた御心に適う良いことについて話しました。それは、王に願い出てから、エルサレムに着くまで彼が経験したことです。神の御手が確かにあったことを彼の信仰に歩みを通して経験し、それを励ましの言葉とすることができました。私たち自身が信仰によって歩み、神の御手を経験していなかったならば、このように話すことはできません。聖書にこう記されていますと話すことはできても、力がありません。

 そして、王が言った言葉を彼らに告げました。ペルシャの王が許可したのです。それは、公に認められた働きであり、誰も反対できないのです。

 これらの言葉を受けて、彼らは、自ら「再建に取り掛かろう。」と言って行動を起こしました。この働きについては、「良い仕事」と表現されています。この「良い」は、「恵みを下さった」と訳されている語と同じ語です。八節にも、「恵みの御手」と訳されています。その意味は、良いすなわち、神の御心になかったという意味です。ここでは、神の御心になかった良い仕事という意味です。

・「私に恵みを下さった私の神の御手」→「私の上に良い私の神の御手」すなわち、御心に適ったことをされる神の御手。

2:19 ところが、ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちを嘲り、蔑んで言った。「おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか。」

 彼らの良い仕事に対して最初の反対が記されています。それは、嘲り、蔑むことです。「王に反逆しようとしいるのか。」と。神のために始めた仕事について、彼らは理解できません。そして、彼らの仕事の目的が、王に対する反逆であると決めつけ、嘲るのです。

 教会の集会に集い、活動することを反社会的行為であるかのように言う者たちもいるのです。極端な場合、それは、迫害となって現れます。平和な今日でも、私たちが世の人と共に行動しないことについて、よく思わない人もいるのです。神の栄光のために仕えることを理解しな人は、そのように考えるのです。彼らの思いは、この世のことです。

2:20 私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。それで、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。あなたがたには、エルサレムのうちに何の取り分も、権利も、ゆかりもない。」

 彼らが嘲り蔑むことに対して、彼は、天の神が成功させてくださると明確に答えました。彼は、恥じることがありません。生ける天の神がおられ、その御心に適ったことを実現させてくださることを、彼は確信していました。敵対者に対して、また、嘲る人に対しても、恥じることはありません。明確に証しすることができたのです。それは、彼が日常から、神の御手を経験していたからです。また、全てのことを御心のままに神が実現することを経験として知っていたからです。単なる知識であるならば、ここまで明確に答えることはできません。

 そして、自分達は、その神に仕えるしもべであり、神に仕えるので、この仕事を行っていることを証ししました。

 その上で、神の御心を理解しない彼らについて、彼らは、エルサレムに出入りしていて、そこでの権益に与っていたのです。しかし、エルサレムは、神の都であり、神を知らない、また、この世のことしか考えない彼らが、エスルサレムで取り分も、権利も、「ゆかり」→「記念」もないと宣言しました。ちなみは、ゆかりは、辿って行けるつながり・関係のことです。

 「記念」とは、覚えられることを表しています。ここでは、神の前に覚えられることです。それは、神の報いをもたらすものです。

 もし、肉的な思いで教会での利益を求める人には、神の教会において、何の取り分もないのです。